之前上日文課的時候,念到了這一篇節錄自 悩みとつきあおう(串崎真志 著)的文章,心裡有所感觸...

 

前兩天又看到噗友 噗浪巴斯 寫的噗世間只有兩種(東西),給我們最大的痛苦,第一個就是錯覺,第二個就是假設

 

讓我覺得實在不能同意他更多了~真的是太精闢而又一針見血的見解!!



所以即便是耗費了我寶貴的午休時間,我也要把這篇文章type下來,提醒自己,不要去用預期心理和推測他人的行為而讓自己煩惱... 

(看得懂的就看得懂,看不懂的話...孤狗大神翻譯也是很在行的~哈~)



簡單大意是說,例如像是在情侶之間,一方說出:『我最討厭你了~我再也不想要見到你~』,而另一方回答說:『喔~是這樣的啊...』,其實在說出口的時候,心裡多半都會有所期待對方有所回應,可能期盼對方能夠站在自己的角度想,或是期盼多關心自己,但是狀況如果不如自己所預期,就會感到失望...


有時候跟朋友傳簡訊,如果對方沒有馬上回覆,這時候心裡就會想『他到底在幹嘛?』,如果等了好一會兒,對方還是沒有回覆,這時候心裡就會七上八下掛心著,腦袋裡想著『是不是發生了什麼事情了?』...

所以我們煩惱的來源之一,就是對別人有所期待。在不斷地臆測臆測或是預期別人反應的過程當中,煩惱就會產生,而這種對別人的「關心」所造成的煩惱,則會伴隨著年齡而日益漸增。

(我沒有翻譯全文,也不是專業翻譯,請不要找我碴~哈~但是歡迎日文高手來幫我多解釋一些



心って何だう。
 
このような問いは、誰でも考えたとこがあると思います。心を持った人間が、心について考える。これはある意味で、とても不思議な現象です。自分自身について考えることと、ほとんど同義とさえいえるでしょう。私自身の10代を振り返ってみても、内向的な性格からか、頭の片隅で、いつもこのようなことを考えていた記憶があります。
 
心についての不思議は、日常生活にあふれています。
 
たとえば、恋人から 「あなたなんか大嫌い。もう二度と顔も見たくないわ」と言われたとしましょう。「はい、そうですか」と、これを文字どおり受け取ると、状況によっては大変なことになります。相手は「もっと私のほうをふり向けいて」と思っているのかもしれませんから。 
あるいは、友人に携帯電話でメールを送ったとします。ところが、すぐに返事が返ってこないと、「何をしているのかなあ」と心配になりますね。しばらして、まだ来ないとなると、ついイライラしてしまうものです。「何か事情があるのだろう」と頭ではわかっているのですが。
 
私たちは、おたがいの心を想像しながら生活しています。相手に期待、相手からの期待にこたえようとします。ときには、そこにズレが悩みのひとつの種になることも多いでしょう。ここで大切なことは、そもそも人が心に関心をもたなければ、悩みは生まれない、とう言うこちです。あたりまえといわれれば、それまでですが。
 
他者の心を推測し、自分の心をふりかえる。これは、ある意味で、とても人間らしい行動といえるでしょう。その過程の中で、悩みが生じるとすれば、なやみも人間らしさの一部といえるかもしれません。そして、このような「心への関心」は、ある年齢にぐんと発達とがわかってきたのです。
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